休日の昼下がり

 波は穏やかに凪いでいた。オール式の小さな木のボートは、青い波の上でゆったりと揺れた。船べりに当たる波が楽しい水音を立てる。このまま居眠りしたならとても心地良いだろう。しかしそんな事はできない。なぜなら今、目の前には大きな魚がいるのだ。つるりと光る真んまるい目でじっとこちらを見つめている。表情など読めるわけもなく、ただひたすらに不気味だ。
 奴が乗り込んで来たのは、今から30分程前だ。ボートの縁に平べったい銀色のヒレが取り付いたのだ。突然起こった奇妙な出来事に、私の思考は活動を放棄して、ただただそれを見つめて固まっているだけという情けない有様になってしまったのだ。ヒレの次にずっしりとした三角の頭部が姿を現した。レンズのような無表情なまるい目が私を映していた。私は叫びながらボートの端で身を縮めた。重さのバランスが崩れて、ボートはひっくり返らんばかりに揺れたが、そんな事に気を回している余裕は無かった。
「こんにちは。」
 混乱する私の耳に、何とももやーんとした声が入ってきた。それが魚の声だと気付くまでにずいぶん時間がかかった。魚は水音高く体を跳ね上げてボートの中に転がり込んできた。大量の水も一緒に流れ込んできて、私は頭からずぶ濡れになってしまった。魚の生臭い匂いが鼻をついた。魚の種類は私には分からなかった。ただ、れっきとした魚であることは確かだ。人魚でも半魚人でも何でもなく。
「あの、魚……さんが私に何の用でしょう。」
 大きな口。その気になられたら丸呑みにされてしまいそうだ。できるだけ相手の気分を逆撫で無いよう低姿勢な態度を心掛ける。しかし魚に気分などあるのだろうか。返事は無く、まるいまるい目だけが、やはりこっちを見ている。感情は読み取れない。これでは、もし魚の逆鱗に触れてしまっても、全く気づけないではないか。
「あの、食べますか。」
 敵を懐柔するには食い物で釣るのが有効だ。私は持っていたおやつの蒸しパンを差し出してみる。と同時に空耳の可能性に思い至る。魚が口をきくなんてありえない。この魚は何かのはずみでボートの上に跳ね上がってしまって、何かの偶然で私と対面して座り込むような格好になってしまっただけなのだ。そうに違いない。それならばオールの先でうまく水の中に戻してやれないだろうか。
 それなのにだ。耳の中で不確かに反響するような声が再度聞こえた。空耳なんかじゃ無い。
「礼を尽くしている者を釣ろうなど人間サマはとんでもない方々ですな。」
「ええ、いえ、そんなつもりは全くありません。」
 私は慌てて蒸しパンをザックの中にしまい込む。動きのひとつひとつが魚のガラス玉のような目に映り込んでいて、見張られているような居心地の悪さを感じる。
「ちなみにあなた、魚はお好きですかな。」
 魚が問いかけてきて、私は何と応じるべきか考え込む。好きだと言えば、礼を尽くした者を食おうとすると言われそうだし、嫌いだと言えば本人(魚?)を目の前によくそんな事が言えますな、と返ってきそうなのである。一体どう答えるべきなのだろう。 
 長い午後になりそうだ。                                                           
                                                                  (終)

影の保存

 うだるような暑さだった。セミの鳴く音すら気温を上げる要因の一つになっている。電車がやってくるまで、まだ5分以上あった。
「何というのか…時々言いようもなく悲しい気分になるんだ。」
 ただでさえ暑くて苛立ち気味なのに、そういう話題を振ってくるのか。香地谷はほとんど睨みつけるように、隣に立つ男を見た。俯いた頭、やや丸まった背中。変化の無い構図で基羽はそこにいる。いつもいつも熱心に地面を眺めているが、一体何か素晴らしい落し物でも落ちていると言うのか。
 生温い風がホームを吹き抜けていった。全く息が詰まりそうだ。
「暑いな。そろそろ来ても良さそうなんだが。」
 香地谷は腕時計に目をやって、一瞬動きを止め、それからホームの時計を見上げる。電車は遅れているようだった。香地谷はため息をつく。
「そういう気分の時って無いのかい。」
 話は続いていたらしい。何となく悲しい気分の時なんて誰にだってあるだろう。常に上機嫌を保てるのならば、その方法を教えてほしいくらいだ。
「安心しろ。お前ひとり特別なわけじゃない。」
 香地谷が言うと、基羽はやや表情を明るくした。
「何だ?何か悩み事か?」
 形式的な質問だ。それを聞き出したからと言ってどうするわけでもない。興味すら無い。しかし、そういった問いにも真面目に返してくるのが基羽だった。会話に遊びが無いのだ。
「別にそういうんじゃないんだけど。ただ、最近特にそんな気分になる事が多くて。心当たりが見つからないんだ。」
 香地谷の脳裏に、ふと別の人間の貼りついたような優しい笑みが浮かんだが、ここで思い出す事ではなかった。
「子どもの頃、お気に入りのキーホルダーをカバンや何かに付けただろう。親戚の旅行土産とかでもらってさ。だけどあれって、いつの間にか金具が壊れて落ちてしまうんだ。気付いた時にはどこで無くしたのかも分からない。ものすごく気に入っていた物だったのに。悲しいなんてものじゃない。だけどさ……」
 基羽は言葉を切って、確認するように香地谷の方をちらっと見た。香地谷は曖昧に頷いた。電車は来ない。暑い。
「今思い出そうとしても、そのキーホルダーの色もかたちも全く出てこないんだ。それなのに、失った時の悲しいという感情だけははっきりと思い出せる。染みついて消えない。」
 きっと基羽の中には忘却しきれない感情が、薄い埃の層みたいに堆積しているのだろう。
「記憶なんてそんなものだ。有ったか無かったか分からなくなったようなキーホルダーなんて、きれいさっぱり忘れてしまえばいいんだ。」
 言いながら香地谷の中に疑問が残る。それでも感情は残るというのか。感情だけが。 

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箴言集

忘却は罪であり、救いでもある。
                     (或いは情報選択としての忘却)

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Sympasic Donner

「もちろん全てのものには意思がある。」
 ホースで水をまく作業を続けながら博士は言った。ノズルの先は霧吹き状になっていて、角度によって小さな虹を作る。
「ええ、最近では植物も意識らしきものを持っているという説も出ていますね。」
 足白は微笑して同意した。そうやって頷きながら、切断した思考の方は恐怖を感じている。植物に意思があるのだとすれば、足白の感情は植物をも同調してしまうだろう。
「植物だとか動物だとかいうスケールの事を指したのでは無い。」
 博士はホースをたぐり寄せて移動しながらいう。
「例えば……いや、回りくどい言い方はやめよう。全てというのは言葉通り“全て”(ALL)を指すのだ。」
「動物植物以外の何がいるんですか。」
 足下に浅い水溜まりがたくさんできている。足白は小さな歩幅で慎重に避けながら後を追う。
「君は本当にその二つだけで世界ができていると、そう思っているのか?」
 足白には分からなかった。“全て”生命あるもの全てではないのか?
「我々を組成しているものを細かく、更に細かく分解してゆくと、それはこの地球を構成している成分と同じだという事が分かるだろう。水も空気も大地も全てだ。全ては同じものなのだ。さて、ここで質問だ。意志。意識といってもいい。これは何だ?あるいは我々が心とか感情とか名付けているものは。もちろん脳だって構成要素は同じものだ。」
 足白は目の前が眩むような錯覚を感じる。全てが……星が意識を持っていると言うのか。
「何もSFめいた話をしているわけでは無い。例えば君が食事をしたとする。米や小麦、魚も野菜も分解されて君の体に加わる。それは君の組成に流れ込み一部となる。それらは君を通じて意志を得る。」
「僕が昨日食べた鶏肉と意識を共有してるって言うんですか。」
 博士は水を止めてホースを巻く。泥水が跳ねて足下を汚した。
「だからそんなSFみたいな話では無いんだ。無数の小さな粒が集まって形をとる。あるものは液状になって流転し、あるものは固くかたまる。あるものは流れを持った機関となって意志を持つ。
「水や石にも感情があると言うわけですね。」
「表現方法は異なるだろうが、そういう事だ。もしかすると、私は以前その辺りの小石のひとつであったかもしれないし、この組成が崩壊したなら、やはり水と土に戻るだろうからだ。私の意識はどこへ行くと思う?」
 足白は首を振る。
「想像もつきません。」
 博士はホースを片付けると、背伸びして空を見上げる。
「だが、材料は無限にあるわけじゃないんだ。君は私であったかもしれないんだよ。」
 やはり足白には分からなかった。自分の持つ周囲の感情を全て同調させてしまう性質は彼自身のものではなく、何かもっと大きな全体からの影響だというのだろうか。博士はそれ以上何も教えてくれそうにはなかった。高い場所で鳥が鳴く。
                                    (抄)

いかさま時計師

 町には古くから続く小さな時計屋がひとつあった。 店主はいかにも職人気質のヤギひげの老人で、愛想は良くも悪くもなかったが、腕の確かさと誠実さは町の人々に好まれていた。
 どんなに古い時計でも酷く壊れてしまった時計でも、彼の手にかかれば魔法のように治ってしまった。丸いグラスの向こうから時計の中身を見つめて検分する青い瞳は時計の全てを見とおしているようでもあった。
 ところが実のところ、その店主グリオールは時計が嫌いだった。憎んでいると言ったっていいくらいに嫌いだった。彼は毎日毎日たくさんの時計に囲まれながら、幾つもの時計の内臓を見ていたが、そうしながら大嫌いな敵の情報を収集してもいたのであった。
 夜になって月が昇ると、グリオールはコップに少しのウィスキーを注いで空を眺めながら、時間と時計について考えるのだった。星が巡り月の角度が大きく変わるまで。
 そもそもこの、人間の行動を細かく細かく切り刻み制約してしまう時間という概念は何なのだろう。それは目に見えないものだ。ではなぜ存在しているのだろう。時間を可視にしているもの、それが時計だ。
 12に区切られた円の中を規則的に移動してゆく2本の針。それに従って誰も彼もがあくせくと動き回る。そう、こんな風に静寂に包まれて月を見ることなど無いのだ。そんな“時間”は無いと言うわけだ。
 足もとに猫がすり寄って来ていた。褐色の虎猫だ。無口な奴で鳴き声というものを聞いたことが無い。グリオールはそっと指を差し出す。猫はぬっと首を伸ばして指先に鼻を近付けた。しばらくして低く喉を鳴らす音が響き始める。グリオールはその頭を何度かなでてやる。猫には時間の概念があるのだろうか。ふと思う。
 あるかもしれない。しかしそれは一日の行動リズムであって、時計によって計られている時間ではないはずだ。明るくなれば目覚めて活動し、暗くなれば眠る。眠い目をこすって起き続けたりはしない。
 グリオールはひそかにある時計を作っていた。その時計は一見何の変哲も無い時計に見えた。しかし針の進みが一定ではないのだ。グリオールは時計の針の進む条件を自然の流れに合わせようとした。太陽が昇るとその光を受けて針は進む。太陽の高度と光の強さが針の進むペースを決める。日が沈んだ後は月の光が針を導く。
 それは形ばかりは12に区切られていたが、実際のところ一日は24時間ではなかった。1時間、いや1分すらも一定の長さではなくなっていた。
 町の中央には町のシンボルともされる大きな時計塔があった。毎日決まった時刻に鐘の音で時を告げ、人々はそれを合図に右へ左へと動いた。グリオールはこの巨大な時計塔に戦いを挑んだのであった。
 時計の管理は彼に一任されていた。塔の時計の内臓に手を加えるのは何でもない事だった。グリオールは誰に咎められることも無くそれをやってのけた。そしてそれが終わると、次は自分の店の商品を全て置き換えてしまった。

 次の日、時計屋には休む間もない程の人々が押し寄せた。時計の修理を依頼する人の列が切りなく続いたのだ。皆町の大時計に合わせた生活をしていたので、自分の時計が故障してしまったのだと思ったのである。グリオールは黙々と、依頼された時計の中身を入れ換えていった。町の人々は誰も彼も不思議なくらい疑い無く、大時計を頼りきっていた。
 町中の時計が日の出とともに動きだし、太陽が真上になった時に正午を差し、日没後にはややゆっくりと進むようになった。当然時間はあちこちで狂いっ放しだったが、皆自らの時計を見、隣の人の時計を覗き、時計塔の鐘の音を聴くと違和感はすっかり無くなってしまうのであった。