川本さん(後)

「私ねぇ、年取って病院や家族のお世話にはなりたくないから、結構気をつかってるのよ。食事は3食きちんとバランス良くするように心がけてるし、ウォーキングだって頑張ってるでしょ?それなのに最近じゃ、やっぱり素食で一日一食がいいだとか、乳製品は身体に悪いだとか。それに有酸素運動が良いって言うけれどね、別の方じゃあ酸化がアンチエイジングの敵だって言うじゃない。呼吸を深くして新鮮な空気を取り込みましょうって言うけれど、その酸素はあまり体に良くないっていう事なの?」 川本さんは多すぎる情報の波に溺れていた。
「こうなっちゃうとねぇ、もう何が何だか良いのか悪いのか分からくなってきちゃってね。それでも次から次へと考えるのは止められないのよ。ねぇササザキさん、タマゴだって昔は食べ過ぎると悪いものだって言われてたけど、今じゃそんなことないからどんどん食べなさいって学者さんもいるのよ?」
 そもそもそういったジャンクな情報に整合性なんて無いものだ。大体そんな情報たいていの人は右から左に流してしまう。鮮度が落ちるのが早いのだ。いわゆる無責任な噂話と大して変わりは無いのだ。矛盾だらけなのは当たり前だ。それなのに川本さんは悩んで悩んで、どうにかぴったりくる答えを見つけ出そうとしている。
「それは……結局は川本さんがしたいようにするのが一番なんじゃないんですか?」
 僕は腕時計に目をやりながら言った。もうこれ以上店長からの小言の追加は欲しくない。
 川本さんは平坦なイントネーションでふーんと唸ったが、やはり浮かない表情のまま首を傾げている。もうそんな事どうだっていいじゃないですか。喉元まで出てきた言葉を慌てて飲み下す。きっと川本さんにとっては、天地が引っくり返るくらい重要な問題なのだ。そうでなくては、いつも真面目で物静かな川本さんがこんな風になるわけがない。
「時間だぞ。」
 店長の声だ。幾分不機嫌さを含んでいる。胃の辺りに鉛を流し込まれた気分だ。
「川本さん、お店が開きますよ。そろそろ出ましょう。」
 駄目もとで声を掛けてみる。案の定、彼女の動きに変化は無かった。何が悲しくてパートのおばさんのご機嫌を取らなきゃならないのだろう。何だか不当だ。
「いいのよササザキさん。先に行きなさい。店長に怒られるわよ。」
 このまま行っても行かなくても、どの道怒られるに違いない。弱り果てていると店長が入ってきた。そして川本さんに笑顔を向ける。
「川本さん時間だよ。お客さんが待ってるから。朝食なんて食っても食わなくても川本さんはいつものままで十分若いでしょ。」
 僕はにこやかに言う店長を、呆気に取られて見ていた。しかも川本さんの表情がさあっと晴れてゆき、時計を見るなりテキパキと身なりを整えて出て行ってしまったのだ。後には僕と店長が残された。店長がじろりと僕を睨んで言った。
「さあさあ、お前も早く出ろ。」
 ぶっきらぼうに言いつつ、耳が赤くなっているのに僕は気付かないふりをした。全く見事な人遣いだ。 


                                                                     (了)

川本さん(前)

 どうして川本さんにそういうこと言っちゃったの。あれじゃ今日一日全く使い物にならないよ。彼女の分まで誰がカバーしてくれるの?ああ、無理無理。無理だよ。あの状態じゃ仕事なんて手に付くもんか。すっかり考え事の泥沼に、膝の上まで沈み込んでるじゃないか。
 うん、そういう話題はNGだって最初に注意しといたはずだよね。それなのに、どうして川本さんに昨日TVでやってた健康法の話題なんて振ったのさ。それも、朝食を食うか食わないかなんてややこしい話題。どうだっていいよ、そんなの。食い物を売るための陰謀さ。決まってるじゃないか。考えてもみろよ。その情報で一体誰がどんな得をするっていうんだ。
 店長がひとしきり小言を並べ立て、仕事の為に仕方なくと言った体で奥に引っ込んだ後、僕は、片手を頭に当てて難しい顔をしている、パートの川本さんの方を見た。
 川本さんは50代のおばさんで、これといった印象も無い、どこにでもいるような主婦だ。いつも子供の学費が高いとか、今日の晩ごはん何にしようかしらとか、そんな話題が多いが、もちろん僕には適当に相槌を打つくらいしかできない。川本さんだって、ただ話をしたいだけで、自分の子供とそう変わらないような歳のアルバイトの男に、本気で答えを求めているわけでもないだろうから、これはこれでお互い良い関係なのだと思う。
 それなのに。
 異変が起きたのは今朝いちばん。休憩室で仕事前の一服をしている時だった。沈黙が気詰まりで口を開いたのがいけなかった。
「川本さん、昨日のあれ見ました?結局人は何をどれだけ食ったらいいのかってやつ。」
 まあ、こういった健康に関する話題は外さない。どんな人だって多かれ少なかれ関心があるからだ。川本さんくらいの年代の女性なら尚更だろう。そんな軽い気持ちで切り出したのだった。
 川本さんは僕の顔をマジマジと見ると、そのまま驚いたように口を開いて眉をひそめてしまった。まさしく、まあ!って感じに。そこで僕はようやく、薄らと店長の言葉を思い出した。
“川本のおばさんには絶対に流行の健康法とか何とかの話題を振っちゃいけないぞ。”
 確かこんな感じだったと思う。
 川本さんはどこからどう見たって、健康で元気なパートさんだったし、別に太ってもいないし痩せてもいない。平均的という言い方が本当にぴったりくるのだ。しかし何か川本さんなりのコンプレックスでも抱えているんだろうか。その時僕はそんなに深く考えずに頷いたのだった。
「あのぅ……川本さん?すみませんでした。」
 何に対しての謝罪なのか分からなかったが、とりあえず僕は謝った。開店時間までもう間もなかった。川本さんは黙って首を振ったが、表情は硬いままだった。そのまま石膏で型を取れば、ヒトの苦悩というものを余すことなく表現した彫刻が出来上がるだろう。
「ごめんね、ササザキさんは全然悪くないのよ。でもね、どうしても気になっちゃってね。結局朝ごはんって食べた方がいいのかしら、食べない方がいいのかしら。食べるにしたって色々言われてるでしょう?フルーツジュースだけだとか、ヨーグルトが良いだとか、それとも朝一番にボリュームのあるものを食べましょうだとか。」
 僕は頷いた。だんだん、店長が僕に小言を吐いた理由が身に染み込んできた。

                                                                 (続く)

雲になる方法(後)

 空の雲になりたい羊の足は、そのままストー氏の家の方へと向かっていました。
物知りなストー氏ならば心を軽く軽くする方法を知っているかもしれません。ストー氏の小さな家は町の外れにありました。家が見えてくると、その扉の前で木の椅子に座っているストー氏の姿も目に入ってきました。その様子があまりに静かなので、空の雲になりたい羊は近付くにつれてだんだん歩みが遅くなり、ついにはストー氏の何メートルも前で立ち止まってしまいました。何か邪魔をしてはいけないような気分になったのです。
「どうしたのかな。そんな所で突っ立ってないでこちらへ来ればいい。」
 羊が進むのも立ち去るのも躊躇して途方に暮れていると、ストー氏の方から声がかかりました。羊は驚いておろおろしてしまいましたが、何とか気持ちを静めてストー氏の前まで歩いて行きました。
 ストー氏は穏やかに微笑んで羊を迎えてくれました。
「何か用があるのだろう。良い事ならば歓迎だ。悪い事ならばお断りする。」
「とんでもありません。」
 羊は慌てて首を横に振りました。悪い事だなんてとんでもありません。しかし、それならば羊の用事が良い事なのかと言われれば、それも違うような気がするのでした。空の雲になりたい羊は恐る恐る言いました。
「心を軽く軽くするにはどうしたらいいんでしょうか。ボクは空に浮かびたいんです。」
「空に浮かびたいのかね。鳥か何かのように?」
 羊は勢いづいて言いました。
「雲みたいに。」
 ストー氏は目を細めて空を見上げました。
「雲になりたいのか君は。ふん、確かに似ているかもしれない。」
「そう思うでしょう、ボクもあの群れの仲間入りをしたいんです。ああして高い所で漂っていられたらどんなに素敵なんだろう。」
「そうかもしれないな。こうして見上げているととても穏やかで静かな感じがするからね。考え事にはもってこいの場所だろう。」
 ストー氏が羊の考えているのと同じ事を言ってくれたので、空の雲になりたい羊は嬉しくなりました。
「そうなんです。この町はどこにいたって誰かが音をたてていて、全然落ち着けやしません。ボクの心は重くなる一方です。」
 ストー氏は頷きました。
「君の言い分は間違ってはいないだろう。でもね、音をたてずに生きることなどできないのだよ。そして音が無くては心休まらないという者もいるのだ。」
「そんなの変ですよ。音がしなきゃ落ち着かないだなんて。」
 羊は言いました。そんな住人がいるなんて思いもしなかったのです。羊にとって周りで音をたてる者達は全て自分の邪魔をしようとしているとしか思えませんでした。
 ストー氏は言いました。
「君が静寂を求めている空の上が、本当はどんな風か君は知っているかい。」
 羊には答えられませんでした。憧れは強かったのですが、そんな現実的な事は考えたことも無かったのです。第一にそんな事を知ったからと言ってどうなるというのでしょう。絶対に叶わないというのに。
「分かりません。」
 羊は悲しい気持ちでストー氏に言いました。
「そうかね。私にも分からない。ただ知識としては知っているよ。空の上は強い風や弱い風、様々な風の入り乱れる雲の平原だ。」
 羊は丘で行ったり来たりを繰り返している風の事を思い出しました。全く静けさからは遠い奴です。
 空を見上げると青い空に雲は増えて、ゆっくりと流れていました。あんなに静かなのに。
「空ばかりでなく地上を眺めてみるのもまた興味深いものなのだよ。」
 ストー氏が優しく言いました。
「我々は自らの場所で最大限に楽しめばよいのだからね。」
 空の雲になりたい羊はやはり悲しい気分のままでした。今までの自分がダメなような気さえしてきてしまうのでした。
「それならボクはもう丘で雲を眺めてぼんやりしたりしない方がいいんでしょうか。」
 羊はほとんど泣き出しそうな震え声で言いました。ストー氏が心を軽くしてくれるなんてとんでもありません。まるで底の無い沼に全部の足を突っ込んでしまったような気持ちです。
 ところがストー氏は不思議そうに羊に聞くのです。
「どうしてそんな事を思うのだね。君は空の雲を眺めるのが好きなのではないのかね?」
「好きですよ。決まってます。」
「ならば何も問題は無いではないか。君は丘で雲を眺めるといい。それを私が良いとか悪いとか言うような事ではないのだよ。私に限らず誰にもね。そして、君がそうして空を眺めている時、君の心は軽く軽く空へ昇って雲の群れに混じっているのではないかね?地上の騒がしさが君をそこから呼び戻しているのだ。」
 空の雲になりたい羊はハッとしました。 
「残念だが我々は翼をもつ生き物ではないので、自由に空を飛ぶことはできない。だが鳥達に聞いてごらん。君は少々がっかりしてしまうかもしれないけれど。」
 羊はストー氏にお礼を言いました。そしてストー氏の貴重な時間を分けてもらったおわびも。
 空の雲になりたい羊は空の雲にはなれません。でもなぜか気分はとても晴れやかでした。明日丘の上で鳥に会ったら、空の高い所を飛んでいる時はどんな気分か聞いてみようとすら思えたのです。   
(了)

雲になる方法(前)

 その日も雲になりたい羊は、町中で一番空に近い丘の上で頭を上げて、ずっと雲を眺めていました。
 青い空に真っ白な雲がゆっくりと流れていくのを見ていると、憧れに胸が締めつけられるような気分になるのでした。
『あんなに雲とボクは同じようなのに、どうしてボクはあそこへ行けないんだろう』
 羊は空の雲になりたくてどうしようもないのでした。あれはきっと空に浮かぶのに成功した羊達に違いありません。空の雲になりたい羊は自分のもわもわの毛を見下ろしました。
 ちょっと白さが足りないのかもしれない。羊は思いました。雲に比べると少々クリーム色に傾きすぎているような気がする。
『だけど光が強い日や夕暮れ時には、雲は輝くような黄金や、燃え上がるような橙々色になる。どうしたって真っ白じゃなきゃならないわけじゃない。』
 その時です。羊の耳にせわしないおしゃべりの声が入ってきたのは。空の雲になりたい羊は嫌な気分になりながら丘の斜面を見遥かしました。小さな黒い影がちょこまかとした動きで丘を上って来るのが見えます。
「魔女だ……」
 羊はうんざりして思わずひとりごちました。魔女の頭上に目をやると、当然いつものごとく鳥が飛び回っているのも見えました。
「ああ忙しいわ忙しいわ。だって今日来るなんて全然知らなかったもの。今日はのんびり本を読んだりして過ごすつもりだったのよ。それなのに突然来るなんて。イトスミレってもう咲いているのかしら。咲いてなきゃ困るわ。」
 イトスミレなら空の雲になりたい羊の座っている辺りにもたくさん咲いていました。小さな青紫の花は、お茶にすると何とも言えない良い香りをたてるのです。
「誰かがイトスミレを摘んで私の家まで持って来てくれればいいのに。良く効く薬草一束くらいとだったら交換したってかまわないわ。ああひどい。今日はこんな遠くまで出かけるつもりじゃなかったのよ。」
 魔女の声はひっきりなしに続きます。と言うのも、彼女は何でもかんでも頭に浮かんだ事を口にしないと不安になってしまうのでした。とにかく口に出しておけば誰かが聞いていてくれるかもしれないし、自分にとっての確認にもなります。それに魔女はとても心配性で、ずっとひとりで悪い事を抱え込んでいるとそれがそのまま起こってしまうと信じていました。
「こんなお天気で気持ちのいい日には庭のブランコで本を読むのが一番なのよ。何で今日来るのかしら。」
 魔女の頭上を飛び回っている鳥が同意するようにギャーと鳴きました。鳥は魔女の手下でも何でもありません。静かなのが大嫌いなその鳥には、ずっとおしゃべりしている魔女の頭の上はとても居心地が良いのです。ですから当の魔女は、しばしばこの変てこな鳥とか、私は何かにとりつかれているんだわ、などと口走っては不安げに鳥を見上げるのでした。
 魔女と鳥はとうとう丘の上まで上って来てしまいました。
「あら羊さんこんにちは。いい天気ね。今日も素敵な雲が浮かんでいるわよ。」
 空の雲になりたい羊は返事を返そうとしましたが、挨拶の隙も与えず魔女は言葉を繰り出します。羊はのろのろと立ち上がりました。
「まぁ、この辺りイトスミレでいっぱいだわ。さあ摘みましょう。お昼過ぎの鐘までには帰らなくちゃ。」
 スミレを摘み始めた魔女を後に、羊は丘を下りました。魔女のおしゃべりのせいで気分は最低でした。羊は思いました。
 きっとこの心の重さがおもりになっているんだ。空に浮かぶには軽く軽くなけりゃ。

アーヴェルダリエへの帰還 (完)

 契約は果たされた。
 粉々に砕け散って流れてゆく銀の鈴を、ウーレは眺めていた。アーヴェルダリエの大きな暗闇が彼を迎え入れ始めていた。人間達は、この暗闇とその内包するものを恐れる。針先ほどの光も無い闇。だが、恐れつつもその深淵に沈む災厄達を呼び出さずにはいられないのも人間なのだ。
 契約者は正しい時間の流れへと戻った。ウーレがここへ留まる限りは、束の間の平穏を味わうはずだ。ウーレに引き寄せられた災厄達が幾らか戻って来ていた。
「久々の凪だ。安らぐな。」
 災厄のひとつが言う。
「どのくらい続くものか。」
 あの契約者は災厄になることを望んでいた。揺蕩いながらウーレは思い返す。災厄になりたいだと?そんな事を望むまでも無く、人間というものの存在自体が既に災厄ではないか。集団で負の思考を立ち昇らせて災厄達の気を引き、そうやって連鎖反応のように何もかもを壊してゆく。“そういうもの”だ。1人1人の小さな思考は、大きな流れの前では無いに等しい。いや、1人きりになっても結局あのような事を言い出したではないか。
 止められないなら、すべて壊してしまえ。と。
「夢について少しは分かったのか。」
 声がして、ウーレはその方向を見上げる。闇の中に更に凝った暗い暗い塊が見える。ウーレは口元に嘲笑を浮かべて首を振る。
「分からないな。私は夢を見たことが無い。ずいぶん楽しいものらしいな。」
 闇が笑う。
「楽しいものもあれば、恐ろしいものもある。悲しいのも嬉しいのも……」
「目を開いてみる世界と何も違わないではないか。」
 気配が遠ざかる。ウーレは再び一人になる。正直に言うともう何もかもに飽き飽きしていた。このままアーヴェルダリエの闇に溶け込んで一体になってしまえれば、どんなに良いだろう。果たしてアーヴェルダリエは思考するのだろうか。はるか昔に世界の全ての闇を消滅させようとしたF・Dのなれの果て。そうすると、ウーレ自身の意志がアーヴェルダリエとなったシュヴァルツァーの意志となるのか。
「よく分からない。」
 ひとり呟く。自分がいつから存在し、どこへ向かうのか。他の災厄達はそんな事を疑問にしない。そもそもウーレのような姿の者は存在しない。あの契約者(名は何と言ったか、もう忘れてしまった。)はウーレと似ていたのだ。それで興味を持った。
 できるならば入れ替わったって良かったのかもしれない。ウーレは思う。この長い長い瞬間をそっくり譲り渡してしまうのだ。
「そうすれば夢だって見られるかもしれない。」
 どこかで微かに呼ばれる気配がする。災厄達の注意が一斉にそちらを向く。どこかで悲しみが爆発する。


                                                                     (終)