Sympasic Donner

「もちろん全てのものには意思がある。」
 ホースで水をまく作業を続けながら博士は言った。ノズルの先は霧吹き状になっていて、角度によって小さな虹を作る。
「ええ、最近では植物も意識らしきものを持っているという説も出ていますね。」
 足白は微笑して同意した。そうやって頷きながら、切断した思考の方は恐怖を感じている。植物に意思があるのだとすれば、足白の感情は植物をも同調してしまうだろう。
「植物だとか動物だとかいうスケールの事を指したのでは無い。」
 博士はホースをたぐり寄せて移動しながらいう。
「例えば……いや、回りくどい言い方はやめよう。全てというのは言葉通り“全て”(ALL)を指すのだ。」
「動物植物以外の何がいるんですか。」
 足下に浅い水溜まりがたくさんできている。足白は小さな歩幅で慎重に避けながら後を追う。
「君は本当にその二つだけで世界ができていると、そう思っているのか?」
 足白には分からなかった。“全て”生命あるもの全てではないのか?
「我々を組成しているものを細かく、更に細かく分解してゆくと、それはこの地球を構成している成分と同じだという事が分かるだろう。水も空気も大地も全てだ。全ては同じものなのだ。さて、ここで質問だ。意志。意識といってもいい。これは何だ?あるいは我々が心とか感情とか名付けているものは。もちろん脳だって構成要素は同じものだ。」
 足白は目の前が眩むような錯覚を感じる。全てが……星が意識を持っていると言うのか。
「何もSFめいた話をしているわけでは無い。例えば君が食事をしたとする。米や小麦、魚も野菜も分解されて君の体に加わる。それは君の組成に流れ込み一部となる。それらは君を通じて意志を得る。」
「僕が昨日食べた鶏肉と意識を共有してるって言うんですか。」
 博士は水を止めてホースを巻く。泥水が跳ねて足下を汚した。
「だからそんなSFみたいな話では無いんだ。無数の小さな粒が集まって形をとる。あるものは液状になって流転し、あるものは固くかたまる。あるものは流れを持った機関となって意志を持つ。
「水や石にも感情があると言うわけですね。」
「表現方法は異なるだろうが、そういう事だ。もしかすると、私は以前その辺りの小石のひとつであったかもしれないし、この組成が崩壊したなら、やはり水と土に戻るだろうからだ。私の意識はどこへ行くと思う?」
 足白は首を振る。
「想像もつきません。」
 博士はホースを片付けると、背伸びして空を見上げる。
「だが、材料は無限にあるわけじゃないんだ。君は私であったかもしれないんだよ。」
 やはり足白には分からなかった。自分の持つ周囲の感情を全て同調させてしまう性質は彼自身のものではなく、何かもっと大きな全体からの影響だというのだろうか。博士はそれ以上何も教えてくれそうにはなかった。高い場所で鳥が鳴く。
                                    (抄)

いかさま時計師

 町には古くから続く小さな時計屋がひとつあった。 店主はいかにも職人気質のヤギひげの老人で、愛想は良くも悪くもなかったが、腕の確かさと誠実さは町の人々に好まれていた。
 どんなに古い時計でも酷く壊れてしまった時計でも、彼の手にかかれば魔法のように治ってしまった。丸いグラスの向こうから時計の中身を見つめて検分する青い瞳は時計の全てを見とおしているようでもあった。
 ところが実のところ、その店主グリオールは時計が嫌いだった。憎んでいると言ったっていいくらいに嫌いだった。彼は毎日毎日たくさんの時計に囲まれながら、幾つもの時計の内臓を見ていたが、そうしながら大嫌いな敵の情報を収集してもいたのであった。
 夜になって月が昇ると、グリオールはコップに少しのウィスキーを注いで空を眺めながら、時間と時計について考えるのだった。星が巡り月の角度が大きく変わるまで。
 そもそもこの、人間の行動を細かく細かく切り刻み制約してしまう時間という概念は何なのだろう。それは目に見えないものだ。ではなぜ存在しているのだろう。時間を可視にしているもの、それが時計だ。
 12に区切られた円の中を規則的に移動してゆく2本の針。それに従って誰も彼もがあくせくと動き回る。そう、こんな風に静寂に包まれて月を見ることなど無いのだ。そんな“時間”は無いと言うわけだ。
 足もとに猫がすり寄って来ていた。褐色の虎猫だ。無口な奴で鳴き声というものを聞いたことが無い。グリオールはそっと指を差し出す。猫はぬっと首を伸ばして指先に鼻を近付けた。しばらくして低く喉を鳴らす音が響き始める。グリオールはその頭を何度かなでてやる。猫には時間の概念があるのだろうか。ふと思う。
 あるかもしれない。しかしそれは一日の行動リズムであって、時計によって計られている時間ではないはずだ。明るくなれば目覚めて活動し、暗くなれば眠る。眠い目をこすって起き続けたりはしない。
 グリオールはひそかにある時計を作っていた。その時計は一見何の変哲も無い時計に見えた。しかし針の進みが一定ではないのだ。グリオールは時計の針の進む条件を自然の流れに合わせようとした。太陽が昇るとその光を受けて針は進む。太陽の高度と光の強さが針の進むペースを決める。日が沈んだ後は月の光が針を導く。
 それは形ばかりは12に区切られていたが、実際のところ一日は24時間ではなかった。1時間、いや1分すらも一定の長さではなくなっていた。
 町の中央には町のシンボルともされる大きな時計塔があった。毎日決まった時刻に鐘の音で時を告げ、人々はそれを合図に右へ左へと動いた。グリオールはこの巨大な時計塔に戦いを挑んだのであった。
 時計の管理は彼に一任されていた。塔の時計の内臓に手を加えるのは何でもない事だった。グリオールは誰に咎められることも無くそれをやってのけた。そしてそれが終わると、次は自分の店の商品を全て置き換えてしまった。

 次の日、時計屋には休む間もない程の人々が押し寄せた。時計の修理を依頼する人の列が切りなく続いたのだ。皆町の大時計に合わせた生活をしていたので、自分の時計が故障してしまったのだと思ったのである。グリオールは黙々と、依頼された時計の中身を入れ換えていった。町の人々は誰も彼も不思議なくらい疑い無く、大時計を頼りきっていた。
 町中の時計が日の出とともに動きだし、太陽が真上になった時に正午を差し、日没後にはややゆっくりと進むようになった。当然時間はあちこちで狂いっ放しだったが、皆自らの時計を見、隣の人の時計を覗き、時計塔の鐘の音を聴くと違和感はすっかり無くなってしまうのであった。

休日の昼下がり

 波は穏やかに凪いでいた。オール式の小さな木のボートは、青い波の上でゆったりと揺れた。船べりに当たる波が楽しい水音を立てる。このまま居眠りしたならとても心地良いだろう。しかしそんな事はできない。なぜなら今、目の前には大きな魚がいるのだ。つるりと光る真んまるい目でじっとこちらを見つめている。表情など読めるわけもなく、ただひたすらに不気味だ。
 奴が乗り込んで来たのは、今から30分程前だ。ボートの縁に平べったい銀色のヒレが取り付いたのだ。突然起こった奇妙な出来事に、私の思考は活動を放棄して、ただただそれを見つめて固まっているだけという情けない有様になってしまったのだ。ヒレの次にずっしりとした三角の頭部が姿を現した。レンズのような無表情なまるい目が私を映していた。私は叫びながらボートの端で身を縮めた。重さのバランスが崩れて、ボートはひっくり返らんばかりに酷く揺れたが、そんな事に気を回している余裕は無かった。
「こんにちは。」
 混乱する私の耳に、何とももやーんとした声が入ってきた。それが魚の声だと気付くまでにずいぶん時間がかかった。魚は水音高く体を跳ね上げてボートの中に転がり込んできた。大量の水も一緒に流れ込んできて、私は頭からずぶ濡れになってしまった。魚の生臭い匂いが鼻をついた。魚の種類は私には分からなかった。ただ、れっきとした魚であることは確かだ。人魚でも半魚人でも何でもなく。
「あの、魚……さんが私に何の用でしょう。」
 大きな口。その気になられたら丸呑みにされてしまいそうだ。できるだけ相手の気分を逆撫で無いように低姿勢な態度を心掛ける。しかし魚に気分などあるのだろうか。魚からの返事は無く、まるいまるい目だけが、やはりこっちを見ている。感情は読み取れない。これでは、もし魚の逆鱗に触れてしまっても、全く気づけないではないか。
「あの、こんなの食べますか。」
 敵を懐柔するには食い物で釣るのが有効だ。私は持っていたおやつの蒸しパンを差し出してみる。と同時に空耳の可能性に思い至る。魚が口をきくなんてありえない。この魚は何かのはずみでボートの上に跳ね上がってしまって、何かの偶然で私と対面して座り込むような格好になってしまっただけなのだ。そうに違いない。それならばオールの先でうまく水の中に戻してやれないだろうか。
 それなのにだ。耳の中で不確かに反響するような声が再度聞こえた。空耳なんかじゃ無い。
「礼を尽くした者を釣ろうなど人間サマはとんでもない方々ですな。」
「ええ、いえ、そんなつもりは全くありません。」
 私は慌てて蒸しパンをザックの中にしまい込む。動きのひとつひとつが魚のガラス玉のような目に映り込んでいて、見張られているような居心地の悪さを感じる。
「ちなみにあなた、魚はお好きですかな。」
 魚が問いかけてきて、私は何と応じるべきか考え込む。好きだと言えば、礼を尽くした者を食おうとすると言われそうだし、嫌いだと言えば本人(魚?)を目の前によくそんな事が言えますな、と返ってきそうなのである。一体どう答えるべきなのだろう。
 午後は長い。                                                              (終)

空中を漂う様々なもの達

 朝から良い天気だ。風も無いし、青い空は目に痛いくらいだ。塵集めにはもってこいの日だろう。
 まず師が浮かび上がり、それから弟子達がおぼつかない動作でそれに続く。
皆、手に手に長い柄の付いたほうきを持っているのだが、バランスの悪い弟子になると、その長い柄を別の弟子が持っている棒にぶつけてしまったり、安定を取れずに急降下してしまったりと大騒ぎだ。師は真っ白な長髪と、同じく真っ白な長いひげの老人の姿をしている。後に続く弟子達の大騒ぎには注意を向ける事も無く、黙々と上昇し続けてゆく。
 空中には様々なものが浮かんでいる。鳥達はもちろん、草花の種、昆虫、小さなクモ。そして細々とした埃や塵、砂粒などだ。大気の流れに乗って、それらは宙を運ばれていくのだ。
 
 かなりの高度まで上昇すると、ようやく師はそれ以上昇るのをやめて後ろを振り向く。その時には弟子達の数は半分以下に減っている。途中で脱落してしまったのだ。ここまで着いて来る事ができない者には、残念ながら塵集めの素質が無い。師は残った弟子達の顔を1人ずつ確認する。そして満足そうに頷くのだ。
 大気は浮遊物でいっぱいだ。目に見えなくても無数の細かな粒で埋め尽くされている。塵集めは、そんな微細な物を見る事ができる。
 師は長いほうきでもって、その中から必要な物だけをを選んで掃き寄せる。弟子達は今や3人だけになっているが、師の動きを1つたりとも見落とすまいとして、息を殺して見ている。師は無口だ。全ては実際の行動によって伝えられる。言葉も文字も使用されない。弟子達はただ、師の動きを見て真似るのだ。完璧に。
 師が無駄の無い静かな動きで空中を移動しながら長い柄を自在に操る様に、弟子は感動しないわけにはいかない。師が滑るように動く度に、足の先から小さなキラキラした光が跡を描く。氷の粒が掻き回されて光るのだ。師はほうきを振り回してどんどん集める。足もとの明滅が水晶の板のようになる。塵と水をブレンドして雲が出来上がるのだ。
 師が動きを止めると3人の弟子は先を争うようにしてほうきを構え、見よう見真似で塵を集め始める。集め方や集める物を間違えてしまうと不純な雲が出来上がる。師は黙って見ているが、地上に害為しそうな塊ができあがると、そっと近付いて行って、長い口ひげの隙間から静かに息を吹きかける。すると弟子の作り上げた未熟な雲は、再び目に見えない塵へと戻って空中に散ってゆくのだ。
 塵の中にはかつて生きていた者達の欠片も混じっている。土に還り、風に舞い上がり、流れに乗って天高くまで辿り着くのだ。また、遥か宇宙からやって来た流星の欠片も。何がどうなっているのか不明だが、ろくに酸素も無いような環境に生きている微生物もいる。そして空気中にはたくさんの水。
 師は、かつて生命を構成していた塵だけを掃き集めて、にわか作りの生物を作り上げる。そして聴き取る事のできない風の声で情報交換をするのだ。師は世界中の空中の様子を知り、再構成された塵はいずれ還るであろう場所が今どんな状態なのかを知る。師が作り上げる生物は、大抵小さな猫だったり犬だったり鳥だったりするが、時折人の形を取ったものが構成される事もある。おそらく人間達がこれを見れば、天使か亡霊かと思うだろう。中にはそのまま地上へと向かいかける者もいるが、師によってそっと引き留められてしまう。
 弟子達の実習がひととおり終わると、師は辺りをきれいに整えてゆるやかに降下し始める。弟子が続く。4人の後ろで微細な氷の尾がきらめきながら伸びてゆく。
                                                                        (終)  

鳥医者

 帰り道を自転車に乗って急いでいたところ、突然耳もとで羽ばたく音が聴こえ、続いて鋭い痛みがこめかみを襲ったのだった。
わけが分からず一瞬遅れて痛みの中心に手をやると、赤いものがべったりと手のひらを汚した。見ると数メートル先に小鳥が一羽落ちて倒れていた。死んでしまったのだろうか。不幸な交通事故だ。
 そのまま放っておくのも忍びなく、自転車を道の脇に止めて、回収しようと近づいた。あと一歩という辺りで、鳥はバネ仕掛けのようにパッと立ち上がり、何でもなかったかのように空高く飛んで行ってしまった。後に点々と血痕が残っているのは、鳥の血ではなく、今こめかみを伝っているのと同じものだ。
 しばらく空を見上げていると、傷口が疼き始めた。改めて出血が酷いようだ。とりあえずハンカチで押さえるが、すぐに赤く染まった。病院に行った方がいいかもしれない。野生の鳥は何だかんだと雑多な菌を持っていると聞いたこともある。
 あまり病院とは縁の無い体な為、かかりつけの医者などもいない。よって、どこにどのような病院があるのかもよく分からない。とりあえず、いつも通る道沿いに小さな病院があったことを思い出し、そこを訪ねてみることにする。
 片手でこめかみを押さえたまま自転車を走らせていると、すぐに古ぼけた看板が見えてきた。
『おおとり医院』
 かなり年期のこもった文字だ。白髪白ひげの老医師を思わせる。戸口のガラス越しに中を窺うと、受付の女性と目が合ってしまった。軽く頭を下げてドアを引く。
「こんにちは。」
 保険証を取り出そうと手を離すと、受付の台の上に数滴の血が落ちた。女性が慌てて奥へと姿を消し、救急バンを持ってきてくれた。
「初診ですね。こめかみに傷。ずいぶん出血されていますが、どうされたんですか。」
「鳥とぶつかったんです。自転車で。」
 受付の女性は口を押えて目をまるくした。
「それは痛かったでしょうね。なんて酷い事故かしら。」
 だれもいない待合室の渋茶色のソファに掛けて呼び出されるのを待った。見るともなく観葉植物の葉などを眺めていると声がかかり、診察室へと案内される。
 どっしりとした木のデスクについた医者は、思った通りの老人だった。まる眼鏡をぐいと押し上げてこちらを見る。
「そこの椅子へどうぞ。なんでも鳥と交通事故を起こされたそうですね。どれどれ?」
 医者の細長い指がこめかみに触れた。冷やりと乾いた感触が伝わってくる。
「ああ、これは結構深い傷ですな。穴が開いている。くちばしが突き刺さったのでしょうな。鳥はどうしました?」
 医者は淀みなくしゃべりながら、手を動かす。消毒薬が染み込み、疼きが大きくなった。
「鳥は飛んで行ってしまいましたよ。」
「飛んで行かせてしまったのですか。」
 医者の言い方には何となく引っかかるところがあった。
「先生、もしかしてその鳥を逃がしてしまってはいけなかったなんておっしゃいませんよね。まさか血の味を覚えて人を襲うわけでもないでしょうし。」
 医者はじっとこっちを見つめた。まるい目だ。まるすぎる。
「とんでもない。面白いことを言い出す方ですな。」
「最近、道路で車にひき殺されている鳥が多いですからね。恨みのあまりに……ありえないですね。」
 お互いに笑いとばして、この話は終わりになるだろうと思ったのだ。ところが医者の表情は笑うどころか硬くなっていった。
「自由に空を飛び交う者がどうして車などにはねられてしまうのか。自転車と衝突したりしてしまうのか。奇妙だとは思われませんかな。」
 傷口への処理は終わっていた。少し迷ったが、急ぐ用事も無い。
「車のスピードが速過ぎるんでしょう。本当に最近鳥の衝突事故が多い。どうしてもっと高く飛ばないんだろう。」
「気流の変化でしょうな。近年おかしな気象が続くせいで、高い所の気流が混乱しているのです。低い安全な気流が、人間の通る道とぶつかってしまっているわけですな。」
 頷きながら聞いてはいるが、はっきり言ってもう切り上げて帰りたかった。もしかすると、久しぶりに訪れた患者と会話をしたいだけなのかもしれない。それにしてもどうして鳥の飛翔高度と衝突事故についてなのか謎だ。
「気流の乱れと関係しているのが、近年の気温の上昇でしょうな。鳥もできるだけ太陽から離れて飛ぼうとするのですよ。過剰な熱は動きを鈍くしますからな。」
「はぁ。」
 最近よく見かける、血を流して落ちている鳥を思いながら首を振る。
「鳥達の死亡率は年々高くなってきています。悲しい事ですな。とは言え……」
 医者は言葉を切って、まるい目でじっとこちらを見た。何かを値踏みするような視線に体が動かなくなる。そのうえ、じっと見つめ返しているうちに医者の尖った鼻がすうっと平らに引っ込んでゆき、代わりに白ひげに囲まれた唇がつままれたように前へとせり出してくるのだ。慌てて目をこするが、見えているものに変わりはなかった。思わず呻き声がこぼれた。医者の首から上はすっかり鳥の頭に変身してしまっていた。
「鳥達もむざむざと殺されるがままにはなっておりませんからな。生き残りを模索して、次々と新たな方法を試みているのですよ。」
 巨大な鳥の頭が人の言葉で話しかけてきた。
「それにしても、こめかみに小さな穴が開いたくらいで済んで良かったですな。場合によってはもっと酷い可能性も考えられていたのですが、あなたは鳥を気づかってくれましたからな。」
 不意に頬の辺りにぞわぞわした感触を覚える。心臓が狂ったように早鐘を打ち始め、震える手で頬に触れてみる。
「いかがですかな。何すぐに慣れますよ。ようこそ鳥の世界へ。」
 何かを言おうとして喉の奥から出て来たのは、カン高い叫び声のような震えだけだった。
                                                                    (終)

集音業者

「おはようございます。依頼を承りました。空井と申します。」
 確かに午前中の訪問を依頼したのだが、ここまで早朝だとは思っていなかった。眠い目をこすりながら、何とか人前に出られるよう身支度を整える。
 玄関に立っていたのは、中年に差しかかろうかという人の良さそうな男性だった。営業用スマイルではなく、元々が物柔らかな人柄なのに違いなかった。
「ずいぶん早かったですね。片付いてなくて見苦しいのですがどうぞ。」
 空井氏は否定も肯定もしないで穏やかに微笑むと、お邪魔しますと靴を脱いだ。妙にペタンとした軽そうな靴だ。
「良い履き物でしょう。」
 視線に気付いたのだろう。空井氏が説明してくれる。
「とても静かに歩けるんですよ。まるで靴なんて履いていないように。我が社の開発の者が、猫の足からヒントを得て作ったのです。」
 言われてみれば、靴先が三股に割れているのは猫の足を模しているのだと納得できる。
「さて、本日の静寂範囲は、あなたの周囲でよろしかったですね。遠くの音も近くの音も全て拾ってしまいますよ。」
 空井氏の確認に頷く。今日は本当に静かに過ごしたい気分なのだ。日々の多忙に加え、それに関わる人付き合いにも少々摩耗させられていた。
 せっかくの休みだというのに、家の前では道路を掘り下げて工事が行われているし、平日だというのに車の行き来は引っ切り無しだ。冬休み中の子どもの声。大声で話している老人の声。全てが神経を擦り減らしてしまうのである。
 まったくの静寂が必要だった。しかしそんなものはこのご時世にあるはずもないのだ。誰もいない山頂にでも登れば話は別かもしれないが、その為に行って帰る行程を思うと馬鹿馬鹿しく思える。
 電話が鳴ったのは唐突だった。
 「もしもし、こちら集音をしておりますオトナシ環境と申します。本日は突然のお電話で失礼いたします。今お時間の方はよろしいでしょうか?」
 普段であれば、このような勧誘紛いの電話は全て切ってしまうところだが、相手が妙に丁寧で物静かな雰囲気なのもあって話を聞いてみる気になってしまったのだった。
「我が社では音に敏感な方、神経質で静かな環境を好む方に向けたサービスをしております。また、近所の音が耳につく、車通りの音がうるさい。ある特定の人間の声だけを聞きたくないなど、様々なシーン毎のニーズにお応えしております。」
「申しわけありませんが、家の改修工事をする予定は無いので。」
 最近多くなってきたリフォームの勧誘だ。防音の効いた床だの壁だのを売りつけようとしているのに違いない。しかし電話口の相手は、こちらの思い違いはさも当然といった、慣れた口調で続けた。
「勘違いされるのも仕方ありません。我が社はリフォーム業者ではありません。環境を操作する会社なのです。」
 そんな風に言われても全く話はすっきりしなかった。
「じゃあ、どうやって静かな環境を提供してくれるんですか。」
 電話を切ってしまえば良いものを、こうなってくるとこちらも引くに引けない。つまり会話を打ち切る隙間を見つけ損なってしまったのだ。
「カタツムリを使います。」
 電話の向こうから耳に入ってきた言葉に、思わず妙な声が漏れた。同時に自分の耳を疑う。
「大丈夫です。依頼者様には角一本触れることはありませんから。ただ……デメリットを申し上げておきますと、カタツムリを放った所にはどうしても、ぬめっとした粘液の跡が残ってしまいます。でもご心配なさらないで下さい。こちらの汚れも担当の者がきれいに清掃いたしますので。」
 こうなると何かのイタズラ電話を疑っても仕方ないはずだった。それなのに日にちを決め、時間を決め、値段の交渉にまで話が進んだのは、まさに魔が差したとでも言うしかなかった。
 こうして今に至る。
「それでは音喰いを何匹か放ちますよ。よろしいですか?」
 空井氏が肩に掛けていた麻地のバッグの中から銀色の箱を取り出して質問してきた。
「カタツムリですか。」
 空井氏は頷くと、箱の蓋を開けて中からスライド式の板を引っ張り出した。そこにはお馴染みの、薄い色の渦巻きがきれいにならんでくっついている。縦に5匹。横にも5匹。一見何の変りも無い普通のカタツムリだ。
 空井氏が慎重な手付きでカタツムリを板から剥がしてゆく。そして部屋のソファの上やらテーブルの上、棚の上などに手際良く置いて回るのだ。
「今日一日、音喰いたちを踏み潰してしまわないように注意して下さい。」
 空井氏がこちらを振り返って言う。どうやら25匹のカタツムリが我が家に放たれたらしい。
「それではご契約終了の時間に再度窺います。よい一日を。」
 オトナシ環境からやってきた担当者が帰ってしまうと、部屋の中にはたくさんのカタツムリだけが残された。何とも釈然としない気分でそれを眺める。
 ふと音が消えている事に気が付いた。窓の外には相変わらず車の影がひっきり無いのだが、あの耳障りな走行音が全く無いのだ。まるで重力が消え去って何もかもが軽くなってしまったような気分だった。現実味が無い。時計が秒を刻む音も、人の話し声も、風が窓をガタつかせる音も。全ては無音だ。まさに完全な静けさがここにあった。何と言う素敵な環境なのだろう!今日は申し分の無い休日になることに間違いなしだ。
 
 さて、存分に休息を取る事のできた一日が終わると、再び空井氏が現われた。音はしないはずなのに、彼のあの靴がたてる微かな柔らかい音だけは聴こえるのだった。
「いかがでしたか。」
 カタツムリを全て回収し終えると、透明なスプレーを噴きながら空井氏が言った。今や音はすべて元通りだった。それは洪水のように耳に流れ込んできた。
「ええ、とても快適でした。またお願いしたいですね。」
「それは光栄です。」
 空井氏は嬉しそうに笑うと、自分の清掃の成果を確かめて頷いた。
「質問してもいいですか?」
 外を甲高い笑い声が通って行く。いつもの高校生達だ。全くいつも賑やかなことだ。
「音喰いって一体何なんです?」
「申し訳無い。それは企業秘密です。」
 空井氏は唇に人差し指を当てて首を振る。
「それじゃあ、音喰いは食べた音をどうするんですか。渦巻きの中に溜め込んでしまうとか?」
 すぐに答えは返ってこなかった。少々興味を見せ過ぎてしまったかもしれない。後悔し始めていると、空井氏は気分を害したようでもなく、口を開いてくれた。
「どういう仕組みなのかは私ではうまく説明できません。ただ、集音がいっぱいになった音喰いは音蒔きに食わせるんですよ。」
「音蒔き。」
「ええ、音を、騒がしさを求める方々もいるのです。」
 空井氏は言い終えると立ち上がった。
 彼が去ってしまった後でふと気付く。名刺も領収書も何も残ってないのだ。もしやと思い検索をかけてみたが、案の定何も引っかかっては来なかった。これでは次回の依頼などできないではないか。

 ―というわけで、再び電話が鳴るのを気長く待っている日々なのだった。

(終)

天は美しい光に満ち

そこへ辿り着いたのは全くの偶然だった。
あの日私はやり切れない気分で車のアクセルを踏んでいた。何もかもが空しく不条理に思えた。仕事も友人も家族も、自分自身さえもどうでもいい気分だった。
 どこへ向かうともなく車は進んだ。小さなペダルを踏みさえすればどこまでも加速する。それは運転ではなく車に運ばれている感覚だった。気が付くと曲がりくねった坂道を走っていた。どうやらどこかの山道へと入り込んでしまったようだった。だが、それもどうでもいい事だった。私は前進し続けた。
 道は次第に細くなってゆき、辺りは日暮れて薄暗さを増した。さすがに見通しが悪くなってくると不安が頭をもたげてきた。そもそも私はそんなに腕の良いドライバーではないのだ。急速に頭が冷めてゆき、現実的な不安が形を取り始める。
 ここはどこなのだろう。慌てて燃料メーターを確かめる。良かった。まだ半分程はあるようだ。道は細く切り返す場所も無い。とにかく進むしかなかった。悪い性格が顔を出し、後悔が怒りに転化されると運転は荒っぽいものになった。意識してゆっくりと走らなければつまらないトラブルを起こしてしまいかねなかった。私は鬱々として進んだ。空気は冷え切っていたが、全身に嫌な汗が滲んだ。
 突然坂道が終わり車は広い場所に出た。私は驚いてそれを見上げた。大きな天文台だった。半円形の屋根から巨大な望遠鏡の先が覗いて、ゆっくりと動いているのが見えた。私は車を降りると天文台の入り口へと向かった。これ以上運転を続けるのは無理だった。それに道を確認しなくてはならない。
 扉は解放されていた。私は囁くような声で中に呼びかけた。返答があった。
「こんばんは。星を見にいらしたのかな?」
 私は声のした方へと歩いて行った。長い梯子の上から一人の老人がこちらを見下ろしていた。彼はにこりと笑って再度挨拶の言葉をくれた。
「こんばんは。ちょうど良い時間にいらしたね。今から天の蓋が開いてたくさんの星がこぼれ出すよ。それはそれは美しいんだ。私の造ったこの特性のレンズで見れば、感動のあまり、次の日から少々の事じゃ心が動かなくなってしまうかもしれない。」
「今夜は何か天体ショーが見られるのですか?」
 私は少し興味を持った。それにしては他に見物客はいないようだが。老人は楽しそうに頷いた。
「天体ショーか。良い言葉だね。気に入った。さあその梯子を昇っておいで。足元には十分気を付けながらね。ふん、そんなとんがった靴は脱いでしまった方がいい。」
 私は靴を脱いで裸足になると、細い鉄の梯子を昇って老人の所まで行った。そこは思っていたよりも随分高く、下を見下ろした私は背中にぞっとしたものが走るのを感じた。老人が笑った。
「下なんか見たって面白いものはないさ。上を見よう。上をね。」
 私は促されるままに天を見上げ、息を呑んだ。空一面に落ちて来そうな程の光が散りばめられていた。こんなにたくさんの星を見たことは無かった。じっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。
「遥か遥か昔の光がこうして今届いているんだよ。何とも不思議ではないかね。」
 老人が言った言葉には純粋な、星への感嘆が溢れていた。私は同意した。太古の光が今あそこにある。それでは私は今、様々な時間から届いた光を見ているというわけだ。それはとても不思議な感覚だった。
「さて、そろそろ天の蓋が開く頃だ。」
 老人が言った。
「これを見られるなんてあなたは運が良かった。もちろん私もね。この感動を一人占めにしなくてすんだんだから。」
 彼は体全体を使って大きな調節ねじを回していた。ねじは一回転するごとに軋んだ音を立てた。何回か回してはレンズを覗き、また何回か回す。
「よしこれでいい。上々だ。」
 私が老人の作業を見るのに飽き飽きしてきた頃、老人は体を起こして伸びをしながら言った。手招かれるまま私は望遠鏡の側に行き、レンズを覗きこんだ。
 それは何という光景だったろう!私は二度と夜に色彩が無いなどとは思わないだろう。青暗い空には色とりどりの光がひしめき合っていた。ピンク、マゼンタ、コバルトブルー、エメラルドグリーン、白、紫。光はゆっくりと渦巻きながらこちらへ迫って来ていた。
「大丈夫。あの光はまだどれも、ここまでは届かない。」
 老人が笑いながら教えてくれた。レンズの先ではますますたくさんの光が現われ、空一面が仄明るくなった。私は呼吸するのも忘れて空の景色に見入っていた。
「星が生まれてから死ぬまでに比べると、人なんてほんのちょっとの瞬きでしかないと思うよ。そのほんの少しの時間を、悩んだり苦しんだりと忙しない事だ。」
 老人の言葉には皮肉でも持って回った感じもなく、無邪気な驚きだけが込められていた。だがその時の私にとってはこの上ない助言として聞こえたのだ。思考の迷路みたいになって私の気を滅入らせていた事も、ぎくしゃくした人間関係も、仕事も、何もかもが取るに足らないちっぽけな事に思えた。私はこの宇宙の中を一瞬通り抜けて消えてゆく小さな点だった。
 私は老人に礼を言い、それから現在位置の確認をした。老人はわざわざ梯子を降りると、奥の部屋へ行って地図を持ってきてくれた。随分遠くまで来てしまったような気がしていたが、老人の細い指が示したのは、私の住む場所からそう遠くはない山だった。私は再び礼の言葉を口にした。
「満足してもらえたのなら良かった。いいかな、星々はいつでも我々の頭上で輝いている。遥かな過去も、ずっとずっと先の未来もね。誰も見てなくたってあのような光の渦は頭上で渦巻いているし、美しい色も変わらないんだよ。」
 老人はまたおいでとは言わなかった。私が出発を告げると、一度頷いただけだった。私が立ち去るのも待たず、長い梯子に手をかけて上って行ってしまったのだ。私はその姿を見上げたが、老人はレンズを覗いたまま、もうこちらを見ることは無かった。
 私は車に戻りエンジンをかけた。静寂の中にその音は不釣り合いに響いた。ゆっくりと車を発進させ帰途に着く。気持ちは凪いで穏やかだった。何もかもが些細な事だった。頭上には広大な空が拡がっていた。そしてそこでは鮮やかに輝く星々が唸りを上げて回っているのだ。私はその事を知っている。
 あの夜の天文台で私は老人からこの世界の秘密を明かされたのだ。
                                                                      (終)